教え
浄土真宗について
浄土真宗は、親鸞聖人が出会われた阿弥陀さまという仏さまの教えを私たちに分かりやすく伝えるため開かれた仏教宗派です。
この阿弥陀さまという仏さまは、仏さまとなる前は「法蔵菩薩」と言われていました。
この菩薩の時に、とてつもなく長い時間思惟を重ねて、この私たちを救うための四十八からなる願いを発し、成就し阿弥陀如来という仏さまとなられました。
この願いの中で、阿弥陀さまは「無量光仏」と「無量寿仏」になると誓われています。
「無量光仏」とは、どこにいてもこの私たちを救い取ってくださる光、その光が決して絶える事が無い、量ることの出来ない光の仏さまということです。
また、寿命があれば自分が亡くなった後、私たちを救うことが出来ない、いつまでも人々を救いたいという事から「無量の寿命をもつ仏」、「無量寿仏」となられたのです。
このように、いつどこにいてもこの私たちを必ず救い取ってくださる仏さまが阿弥陀さまという仏さまです。
成就された四十八の願い(本願)による働きを「本願力」といい、阿弥陀さまからの救いの働きを表す言葉が「他力」となります。
つまり「他力」=「本願力」となり、阿弥陀さまのお働きそのものが「他力本願」なのです。
「他力本願」は悲しいことに、現在において「人に任せて目的を達成する」などの意味で用いられていますが、決してそういう意味ではないのです。
浄土真宗本願寺派では「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」とお念仏します。
この「南無阿弥陀仏」とはお願いや供養などのセリフではなく、「南無=お任せする」つまり「阿弥陀さまにお任せします」という意味で、阿弥陀さまからの『呼び声』と言われています。
「阿弥陀さまからの呼び声を私たちがお称えしている」・・・分かりやすく例えますと、子どもが親のことを「パパ」や「ママ」または、「お父さん」「お母さん」と呼ぶのは、親が子どもに対して「パパですよ~、ママですよ~」と何度も呼びかけをしてきたからです。それと同じように阿弥陀さまは、この私たちに対して「私が阿弥陀ですよ。どこにいても私が必ず救いますよ。私に任せなさい。」と呼びかけてくださっています。
その呼び声のおかげで、私たちが「南無阿弥陀仏(阿弥陀さまにお任せします)」とお称えできているのです。
「南無阿弥陀仏(阿弥陀さまにお任せします)」とお称えするということは、阿弥陀さまと共に人生を歩むということです。
阿弥陀さまに見守られ、ありのままの自分で生きていくことで、心豊かに人生を送る事ができる、それが浄土真宗です。
浄土真宗の教え
親鸞聖人のご生涯
親鸞聖人は1173(承安三)年に、京都の日野の里で、日野有範公の長男としてお生まれになり、幼名は松若丸と呼ばれていたそうです。
聖人は幼くして両親を亡くされたことで、無常を感じられて、青蓮院にて9歳の時に得度(出家)をします。
その際、到着が夕方であったため慈鎮和尚慈円が、得度を明日にしましょうと言われたところ
「古歌にいわく、明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と応えられ、その日に得度が行われました。
聖人は、出家名を範宴と命名され、比叡山にて二十年間修行に励まれました。
二十九歳になられた聖人は、比叡山での修行の道に行き詰まりを感じ下山され、六角堂に百日間参籠されます。
その際に、夢で聖徳太子に、吉水にいる法然聖人のもとを訪ねるよう告げられます。
親鸞聖人は、当時京都にて、お念仏の教え、阿弥陀さまの救いを伝えられていていた法然聖人のもとを百日間訪ねられました。
そして、阿弥陀さまの教えに帰依され、法然聖人の弟子となられたのです。この頃お名前も範宴から綽空と改められました。
お念仏の教えが盛んになるにつれ、比叡山や旧仏教側がお念仏を禁止するよう朝廷に圧力をかけるようになりました。
その頃、後鳥羽上皇の寵愛を受けていた女官二人が法要に参詣したところ、感動のあまりそのまま尼になってしまいました。
このことが上皇の逆鱗に触れ、一二〇七(承元元)年念仏停止の院宣がくだりました。
その結果、四人の死罪と八人の流罪が決まり、法然聖人は僧籍を奪われ土佐へ、親鸞聖人も僧籍を奪われ越後に流罪されました。
当時、僧侶は国家が定めた法令にて認可されていました。
僧籍を奪われた親鸞聖人は「僧に非ず、俗に非ず。このゆゑに禿の字をもって姓とす」と愚禿釋親鸞と名乗られました。
その後、越後で恵信尼さまと結婚され、ご一緒にお念仏の教えを伝えられました。
流罪から五年後の一二一一(建歴元)年に罪を赦されました。その後、関東に向われました。
これ以降、親鸞聖人は約二十年にわたり関東にてお念仏の教えを伝えられました。
また、五十二歳のとき『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)を書き始められ、この一二二四(元仁元)年が立教開宗の年と定められています。
親鸞聖人は六十二、三歳のころ京都に帰られました。京都では、幕府による念仏禁止が続いており、表立った教化もできませんでした。
ひたすら著述に励まれ『三帖和讃』や『尊号真像銘文』などを著されました。
また、京都に帰られた後も、関東のお同行には手紙を書かれたり、訪ねて来られた方にも親しく面接されていました。
しかし、一二六二年十一月下旬に体調を崩されました。
それ以来、ご往生の日が近づいていることを感じ、南無阿弥陀仏の救いに出会えたご恩を喜びながらお念仏されておりました。
そして、一月十六日お念仏のうちにお浄土へ往生されました。親鸞聖人九十歳のときでありました。
浄土往生の素懐を遂げられた聖人のご遺骸は、京都の東山の西の麓、鳥辺野の南にて荼毘に付され、ご遺骨は大谷の地に納骨されました。
聖人ご往生十年後に、大谷の墳墓を改めて吉水の北側に移してお堂を建て、聖人の御影を安置されました。
このお堂が後の本願寺の興りとなります。